少し前に“怒り”についての本が売れていたようですね。「怒らない方法」とかそういった。新聞、ネットのコラム記事なんかでも怒りをコントロールする方法とか、カッとなったときは3秒待てとかなんとか。こんなに色々なところで見かけるとなると世の中の人はみんな怒っているんだなぁと他人事のように思っていましたが、話題になっているということはそれに悩んでいる人が多い、関心が高いというわけで、とにかくみなさん怒っているんですね。

今朝、目が覚めて唐突に思いついたのですが、よく怒る人は自身の怒りも他人のせいにしているように思いました。これが瞬間的に思いついた私のユリイカ。アルキメデスが風呂に入った瞬間に金の純度を量る方法を思いついた際叫んだ「ユリイカ!」ひらめきのことば。私は怒る人がなぜ怒るのかの真理を理解したような、していないような。

昔のことを思い出したのでしょう。父には「なんでお前は俺を怒らせるようなことをするんだ!」子供のころの思い出ですね。どこかのお店でも母親らしき人が子供に「なんで怒らせるの!」といってたり。

さて、少し脱線しますが、自己の正当化は自己肯定とは似いるようでいて全く違うものです。前者は自分が正しいと主張するのに対し、後者は自身を認めること。他人からの承認が足らないままだと自己正当化が進むのではないかしら。認めてほしいが認められない、ジレンマ。こじれにこじれて、自分を認めろと主張する(自己の正当化)つまりは感情のコントロールのできない自分を正当化させたいがために怒っている自分を人の行為のせいにする(自己防衛?)怒りは自分自身のコントロールで本人の問題なのですが。自己肯定が確立されていれば、そのようなことは感情にはならないではないでしょうか。

自己肯定の確立は自立につながります。自立は目的、ゴールであって重要なのはそのプロセス。過程の方が重要なのだと考えます。自己を否定されてばかりでは承認欲求は満たされません。失敗を叱るより、トライしたことを褒めることが必要なのだと思います。承認欲求(失敗したけどトライした事実)を認めることで自己肯定につながり、自立につながるの、かな。

SNSから始まった「承認欲求」という言葉。みんな認められたいんだな。認められてこなかったのかな。誰とも知れないどこかの誰かからのいいねよりも身近な人からの承認(認めること)が本人の成長のプロセスになるのではないかな。と考えたのです。

こんな風に考えるのはミヒャエル・ハネケ監督の作品を立て続けに再視聴しているせいなのかもしれません。世間の春うららとはかけ離れた人のグロテスクな部分を直球でぶん投げてくる作品たちは最高です。さて、最初の「怒り」からは話は逸れて逸れて行ってしましましたが、感情のプロセスを深く深く考えるのはなかなか面白いな、と感じました。